株式会社大沢ガーデン
コラム地域と共に
コラム

三鷹市から環境活動表彰を受ける

 8年前から個人でも会社としても参加している原町会環境協力会第1支部に、三鷹市から地域の環境活動に貢献したとして「環境活動表彰」をいただいた。この表彰は、市内で環境美化などに活動している個人や団体を対象に10年ほど前から行われ、市民の環境に対する意識の啓発や活動の活性化を図ることを目的としている。

 先月、市長公室で清原慶子三鷹市長から直接賞状と副賞をいただいた。他に3つの団体も一緒に表彰を受けた。市長には、その10日ほど前に、私が役員をしている大沢住民協議会主催の講演会にご出講いただいており、担当責任者としてあらためてお礼を申し上げた。清原市長は、今期をもって市長を退任されることになっており、表彰授与式も最後となる。3期12年、本当にご苦労様でした。

 駅前通りでもない郊外の道路にもかかわらず電柱は地中化され、切り取られた擁壁部は植栽の壁面となり、緑地帯にサクラやハナミズキなど様々なの樹木が植えられた。南北2箇所に及ぶ2000平米ほどの緑地には芝庭となった。この住民運動の言い出しっぺのひとりであった私は、当時の担当係長からこう依頼された。「石崎さん、私たちも良い道路を一生懸命作りますから、完成の暁にはどうか環境を守るために、沿道の皆さんのお力もぜひお貸し下さい。」私は彼に約束した。


 環境協力会の活動については、前回のコラムで少し詳しく取り上げたので、ここでは割愛するが、2月に発行された東京都道路保全公社のPR誌「TR-mag.」に第1支部と隣の第2支部が詳しく紹介されている。記事の紹介の中で、こうしたボランティア活動には地元の企業の協力が重要であるとのくだりがあり、弊社の活動がパートナーである東京都からも評価をいただいたと、私としてはとてもうれしく誇らしく感じた。天文台通りの緑地の花の管理や樹木の剪定などで、日頃からボランティアとして汗を流している社員たちに、この2つの出来事を、朝のミーティングで報告させてもらった。

 ㈱大沢ガーデンの使命は、造園業を通じて美しい景観のまちづくり、ひいては豊かなコミュニティづくりに貢献することだと考えている。業務としての個々の庭園の作庭や管理は、会社の本業ではあるけれども、対価をいただかないこうしたボランティア活動も、大変意義のある活動と信じている。小さな会社ができることは限られてはいるが、地域の人たちにも声をかけながら、今後とも社員たちと活動の輪を広げていきたい。


芝地の掃除を朝夕する理由

 社屋は、都道天文台通りに面しており、朝夕、側道と本道に挟まれた1000平米ほどの芝地を掃除するのが、私の日課になっている。運動不足解消という名目でやっているのだが、実は、沿道の皆さんのある想いが毎日の掃除に駆り立ててもいる。

 ところで、なぜ道路際にそんな芝地があるのか。

 そこから説明する必要があるかもしれない。天文台通りのこの辺りは、かつては幅員も8mほどで、歩道もなく、カーブも多く、それこそ死者が何人も出るような事故多発の危ない道だった。
道路の拡幅計画は、40年以上前からあったのだが、平成5年にようやく測量が始まり、具体的な整備拡幅計画が作られることが沿道住民の知るところとなった。
実施計画が作られる前に、沿道の住民の中で度々会合が持たれ、議論を重ね安全で緑豊かな道路を建設してもらいたいと、平成10年、沿道の600名近い住民の署名を集め、要望書を担当する北多摩南部建設事務所に提出した。
7年後、大沢橋バス停〜天文台裏門までの約700mに及ぶ天文台通りの整備拡幅計画が完成した。


 駅前通りでもない郊外の道路にもかかわらず電柱は地中化され、切り取られた擁壁部は植栽の壁面となり、緑地帯にサクラやハナミズキなど様々なの樹木が植えられた。南北2箇所に及ぶ2000平米ほどの緑地には芝庭となった。この住民運動の言い出しっぺのひとりであった私は、当時の担当係長からこう依頼された。「石崎さん、私たちも良い道路を一生懸命作りますから、完成の暁にはどうか環境を守るために、沿道の皆さんのお力もぜひお貸し下さい。」私は彼に約束した。


 道路が完成して2年後、ふれあいロードプログラムという東京都の取り組みを活用し、平成19年から原町会環境協力会(第1支部、2年後に第2支部)というボランティア団体を立ち上げた。両支部合わせて約100世帯が会員になっている。私は第1支部の支部長を引き受けた。東京都だけでなく、町会からも資金援助をいただいる。


 月に2回、第2土曜と第4日曜の朝に会員が集まり、緑地周辺の清掃、除草、芝刈り、花植えなどの活動を行っている。
特に芝地は手間がかかり、春から、2週間に1回の芝刈り・草取り、子供祭りのあとの施肥、そして毎日の掃除と落ち葉掃きをしている。これから秋、ホウキではかき集められないほどの落ち葉が降る季節になる。


 7年間の活動で、木々は緑豊かになり、芝は青々と地表を覆い、植え込みには花が咲き乱れ、道路上の公園のような景観となっている。朝夕、散策やジョギングを楽しむ人、愛犬を連れて散歩するのが日課になっている人と、単なる通過路ではなく地域の人達が愛する散歩道として賑わっている。

 そんな人々を見ながら、密かに自分のお腹が凹んだことを想像しつつ、今日もホウキを動かす毎日である。


職人がいなくなる日

 5月8日の日経に建設関係の企業が大工などの職人を育成する訓練校を作り、卒業生を社員化する動きがあることを伝えている。この背景には職人不足が慢性化し、特に震災復興や東京オリンピックなどにより、熟練の技能職が逼迫してきたことがある。

 この20年で建設業の技能労働者が2割減少したそうだ。そのうち29歳以下は1割で、55歳以上が3割を占めている。つまり若者の職人のなり手がないのだ。当社の社員に聞いても、同級生で職人になったという話は、ほとんど知らないという。

 バブル崩壊後、職人の日当はどんどん下がり、今でもピークだった頃の半分くらいにしかなっていないのではないか。だから、親は転業し、子に継げという職人は滅多にいない。ましてやサラリーマンの子で職人になる若者は、ほとんどいないのではないか。

 エアコンの効いたオフィスとは違い、夏は暑く、冬は寒い。風も吹けば雨も降る。その上ホワイトカラーよりも収入が低く、不安定とくれば、このところ工賃が上がり始めてきたとはいえ、オリンピック後のことを考えれば、そうやすやすとは若者が職人の道を選ぶとは思えない。

 なにかを作りあげたいと思う若者は、皆大学に行って技術職になろうとする。このまま行けば、造園も含め建設現場は、設計者(デザイナー)と施工管理者(監督)だけになり、実際に作業をする技能者がどこにもいないという事態になりかねない。事実、受注があるのに職人を集めることができず、倒産する会社が出てきているという。技術職を目指して就職しても、20年後には職人が確保できず失職するかもしれない。

 私がこの会社を立ち上げたとき、人材について一つの決意をした。デザイナーや施工管理者を目指す若者をまず職人としての技術を身に付けさせ、自分の作品は、本当の意味で自分で作れる技術者を育成すること。そのことで近い将来来るであろう深刻な職人不足に対応し、自らもクリエーターとしての完成度を高める。そんな社員像を描いた。

 これからメンテナンスの忙しい季節が始まる。いくらお客様からオファーが多くても普通の業者ならどこも手一杯。プロの庭師を応援に頼むことは、今でもほとんど不可能だ。自前のメンバーで手入れをやるしかない。しかし、職人の育成には時間がかかり、その費用は会社の持ち出しになる。それでも造園業という業を繋いで行くためには、この方法しかないと覚悟している。

 幸い今年も、来年度の採用が内定した。国立大の建築系専攻の男子と私立大の造園学専攻の女子の二人である。彼らに造園業界の未来がかかっている。

企業を知名度で選ばないことの大切さ

1月に入って、来年4月の新卒採用の準備が始まった。大企業と違い、中小企業は、知名度が低いので、人材を得るのにいつも苦労する。

今年初めて、マイナビに採用案内を出した。はたして、当社のような知名度の低い企業に、エントリーがあるのか不安があったが、1月半ばで150人を超える学生からオファーがあった。

2月下旬に会社説明会を予定しているが、一人でも多くの方に来ていただき、当社のことを知っていただけたらと願っている。最近は、新卒採用の大半は、こうしたネットを使ったシステムに頼っている。11,000社を超える企業が案内を出し、50万人を超える学生が登録している。どちらも大変な数字だ。

 日本の事業所の数は560万、株式会社だけでも189万社あると言われている。つまり、99%を超える株式会社が、新卒採用をあきらめているわけである。もちろん、必要があれば、ハローワーク通じて採用すれば良い、と考えている中小企業も多いかもしれない。

一方、新卒採用ができるのであれば、基幹社員として大事に育てていきたい、と考えている経営者も少なくないはずである。採用費用の問題もあり、学生のオファーがほとんど期待できないなかで、思い切った採用活動ができないのが現状なのかもしれない。



 私は、大企業ではないけれども、行政という職場で34年間働いた。今では人気職場で、毎年、100倍を超す希望者が押しかける。確かに倒産も首切りもない職場は、「安全・安心」を求める人にとっては素晴らしい職場かもしれない。

私自身、34年間さまざまな仕事をさせていただき、それなりに充実感はあった。しかし、リスクをすべて背負った今の仕事のほうが、ずっと面白く、やりがいを感じている。企業経営者になって、私は大きな誤解をしていたことに気がついた。

 私が市役所を選んだのは、大学の4年間、地元のコミュニティ活動に関わったことと、そのことが縁で都市政策のゼミに入り、自治体変革の時代に入ったと感じたからだ。

それに企業は利益を追求するのが目的で、市民の暮らしに直接手を差し伸べられるのは、役所の現場だと思っていた。今にして思えば、何と単純で不遜な認識であったか。

市民の暮らしを支え、豊かにし、仕事を通じて社会に貢献していくという意味では、そのやり方が違うだけで、役所も企業も五分五分である。むしろ、税を原資にしている市役所のほうが、効率性が低いだけ分が悪いかもしれない。



 どんな企業も、市民である顧客の暮らしを支え、豊かさや安心を提供することで、社会に貢献している。その対価として利益をいただいている。もし、不当な利益ばかりを追求し、顧客の暮らしを豊かにできない企業であれば、市場から退場するしかない。

私の会社がこれからも発展していくためには、庭づくりを通じて、地域を豊かにし、市民の暮らしに貢献していくことが何よりも重要なのだと考えている。

コミュニティ活動40年、だが現実は…

 去る11月17日、私が役員をしている地元大沢住民協議会の設立40周年記念式典・祝賀会が、大沢コミュニティセンターで開催された。市長、市議会議長、都議会議長をはじめ三鷹市や大沢地域の関係者200人が来賓として出席した。私もセレモニーの司会を仰せつかり、何とかお役を務めることができた。セレモニーの初めには、弦楽合奏団によるバロック音楽の演奏会があり、厳粛な中にも華やかな彩りを添えた。

 一口に40年と言っても、振り返れば忽ちのような気がするが、組織設立時に二十歳だった私が今や61歳。やはり感慨深い。当時の状況を体験している委員もほとんど私一人になってしまった。大沢コミュニティセンターは、日本で最初に建設された住民管理によるコミュニティセンター。ここをホームグラウンドに大沢住民協議会は、コミュニティ活動を40年続けてきた。

 コミュニティセンターを使った地域のまちづくりは、40年の歳月のなかで果たして成果を上げたのか。この間活動に関わったきた者として率直な感想を申し上げれば、事態はむしろ深刻さを増しているような気がしてならない。高齢化はますます進み、若い世代の地域離れは著しい。都会では町会などの組織率は下がるばかり。震災後、マスコミでは無縁社会というフレーズがよく使われるようになった。

 ネット社会の発展により、一見人々は、社会の様々なネットワークにつながっているように見える。SNSは、新たなコミュニティを創りだしたという人もいる。しかし現実には、良くも悪くも少し距離のある関係を人々が求め、いざという時に命をあずけるような関係性を避けているように思えてならない。平穏な日々がいつまでも続くのであれば、それも良い。近い将来必ず来ると言われている東京直下地震や東海地震、近所の顔も知らないような近隣関係のなかで、果たして家族や近隣の住人を守れるのだろうか。

 地域を支えるローカル企業を目指し、造園業を起業したが、地域の企業群がこうした状況を少しでも変える力にならないかと、今も奮闘の日々が続いている。

ローカル企業という選択

 今年も4月から週1回、拓殖大学に講義に出かけている。ここ3回は地域の起業というテーマで、大沢ガーデンを事例に起業の体験を話している。

 講義の最初に学生たちに聞いてみた。「皆さんが就職先を選ぶ優先順位は何ですか。給料が多いことですか。休暇や就労時間など労働条件が良いことですか。それとも、自分の夢や志が叶えられる仕事ですか。」学生諸君の答えは、半分強が給料、半分弱は労働条件、自分の夢と答えた学生はたったひとり。彼は私の教室では、警察官を退職して学び直している40歳の異色の学生だ。

 予想どうりではあるが、来年の新卒採用で必死になっている私にとっては、少々ため息が出る反応ではあった。企業の数からしては0.1%、就業数にして1割にも満たない上場企業に学卒者の大半が群がり、一方で就職難といいながら、圧倒的多数を占める中小零細企業にはオファーもないという現状のなかで、どうしたら彼らに小さな企業でも満足できる就職先を見つけることができるのか、自問自答の日々である。

 社長になる前に勤務していた武蔵野市はここ20年、採用数に対していつも100倍から200倍の競争率であった。どうしてこんなにたくさんの学生が市役所の職員になりたいのか、人事課の職員も大変だったと思うが、選びに選ばれた若者が入った割には地域のために尽くしたいという志高い人は少ないような気がした。

 企業経営者になって4年目、給料と労働条件は仕事の後に付いてくるというのが実感である。自分のやりたい仕事を見つけ、それを実現できる会社を一生懸命探してほしい。大企業だけが社会を支えているわけではない。ローカルな企業が元気に地域社会を支えていかなければ、人々の日々の暮らしの幸せは維持していくことは困難だ。後10数年で高齢者が3人に1人という状況になる。地域で若者が仕事を通じて生活できる環境を作らなければ、超高齢社会の未来は暗い。

 全国の数百万ある事業所の中にきっと素晴らしい企業があるはずだ、と講義の冒頭で学生たちにエールを送った。つい先日、東京農大主催の企業説明会に参加し、当社のブースにも造園学専攻の学生を中心に13人が訪れた。彼らの真剣な眼差しを見ていると、将来の作庭家がここから生まれたら素晴らしいと期待感が走った。これからインターンシップが始まる。

ヴァイオリンとアコーディオンの熱演ライブ

 

 このところめっきり秋らしくなった10月27日(土)の夜、第11回の大沢サロンが開催された。今回お招きしたアーティストは、ヴァイオリニストの沖増菜摘さん、アコーディオン奏者の大口俊輔さんのお二人。前回の津軽三味線、尺八、箏の女性奏者3人よる和楽器のユニットから洋楽器のデュオと趣を変え、テーマも「映画音楽の旅」と題し、懐かしい映画音楽の名曲に酔いしれた一夜であった。お二人とも東京芸大の卒業だが、クラシックの場ではなく、様々なジャンルで活躍している多才なアーティストだ。楽しいトークも交えて会場は大いに盛り上がった。


 私のサロンのお客様は、特定のジャンルにこだわって来られる方々ではない。どちらかと言えば、今回はどんな企画で楽しませてくれるのだろうか、とちょっと好奇心をもって顔を出される。ご夫婦やご家族で徒歩や自転車でやって来る。だからこのサロンは、和洋中やエスニック、楽器でも歌でも語りでもなんでもあり、ただし、本物であることが前提である。


 2時間のライブの中で、間に20分ほどの休憩を取り、小さな固い椅子から立ち上がって、皆でデッキに出てお茶にする。60人もの人がデッキで楽しそうに談笑している。久しぶりの出会いに喜ぶ人、この場で知り合いになる人、不特定の集まりと違ってサロンは出会いの場、心を交わすパーティ。歳を重ねるごとに私の夢が少しずつ形になる。
 さて、来春の企画を準備しなければならない。次は邦楽で多分琵琶を中心にしたライブになる。乞うご期待。
  お二人のプロフィール


若者にまちづくりを語る

 

 この4月から7月まで、拓殖大学の政経学部で非常勤講師として、学生諸君に「地域振興論」という講義をさせてもらった。研究職でも教育職でもない新米の企業経営者にすぎない私が、なぜ大学の教壇に立つはめになったのか、未だに自分自身でもハテと思っているのだが?

実は、地元の大学の教授で、私にとっては20年以上のお付き合いのある友人でもあり、当社のお客様でもある先生からお誘いをいただいたのがきっかけで、専門の研究者でもない私にはとても無理だと申し上げたら、「あなたのやってきたことを学生たちに話してもらえばいいんですよ」と言われ、半分首を傾げながらそれではと引き受けてしまった。

確かに20代の頃から、単発の講演や前の職場での研修所の講義などは、年に何回か引き受けてきた経験はあるが、前期だけと言っても毎週1回、90分を15回となるとちょっと想像がつかない。
90分の「講演」を15回となるとそんなに話すことがあるのかと内心不安があった。2月にとりあえず大学の学務課に15回分の講義予定を提出し、4月の初講義に臨んだ。

 教室は、50人も入ればいっぱいになってしまうマイクのない小さな部屋で、30人ほどの学生が座っていた。私が講義を受けたころと違い黒板の横にパソコンと繋がった大型のモニターが設置され、インターネットが使えるのでこれは大変重宝した。学生の数を見て内心ちょっとほっとした。
大学に聞いたら前年の受講生は4人と聞いていたので、これならばいけるかなと思った。ところが、受講している学生に聞いたら第2講まではお試しで、3講の時に正式に受講登録をするそうである。教養課程で必修でもない私の講義は、興味がなければ誰も来ないということだ。

フタを開けてみたら、30人が受講登録をしてくれた。が、しかし、講義が進むに連れ、学生の数がどんどん減っていく、いつも来るのは15人くらいになってしまった。前期の過程が終わってたまたま学務課の職員に出席のことを聞いたら、「近頃の学生は、出席を取らなかったら授業には出て来ませんよ。まして試験ではなく、レポートで良いとなったら余計ですよ」と言われてしまった。出てくれる学生はありがたいのだが、必ず何人かが居眠りをするのには参った。1時間目の講義なので、朝早いのはわかるが、目の前でコックリされるのはけっこう辛い。いかにも私の話がつまらないということを抗議されているような気分になる。

 講義の中身は、私が40年続けている地域活動を題材にしたまちづくりについて、34年間勤めた自治体職員としての職場の体験、そして当社を事例に地域での起業と経営についてなどで、概念論は最小限にし、できるだけ具体的な事例、しかも私が実際に関わってきた体験をネタに話しを進めた。

 24人の学生がレポートを提出し、その内の何人かは彼らの地域社会に考察を巡らし、実践的な課題まで論じてくれたのは嬉しかった。それに30人の登録者の他に、一人の学生から「単位オーバーなのですが、ぜひ講義だけでも聞かせてください」と申し出があり、単位取得のためでないのに、最後まで熱心に聴講してくれたのが、本当に嬉しかった。

 多々反省があったが、もし来年もという話があれば、一人でも居眠りを減らすべく内容と講義法の工夫をしたいのだが…。


 

地域に絆を取り戻すために

 

 昨年3月11日の東北大震災から1年あまり、現地では様々な問題を抱えながらも復興に向けた動きが進みつつある。
被災地が新たな発展につながるにはかなりの時間が必要かもしれない。この1年、地域の関わりの中で1番言われた言葉が、「絆」である。岩手県の被災したある集落で、外からの支援物資が届くまでの3日間、全戸からあるだけの食料を集め、全員が集会所で共同生活を送りながら平等に食料を分けて生き抜いたという話が、テレビで放映されていた。

 私の住む大沢は、大都市東京の一角にある住宅地である。食料を集めるどころか、隣近所の顔も名前も知らない人がたくさんいる。40年近く地域で色々な活動をやってきて、しかも地元で企業を営んでいる私だって顔と名前が分かる人は千人とはいない。
この街は1万3千人住んでいるから10人に1人も分かる人はいないということだ。驚いたことに同居している息子の1人が、すぐ隣のお宅で名前を知らない人がいた。この地で生まれて20数年経つのにこの現実、大なり小なり都会ではこんなものなのかもしれない。

 私は、くらしやすい地域社会を願って地域活動をしてきたが、多くの都市住民にとって「くらしやすい」というなかに近隣との人間関係は入っていないのかもしれない。
 しかし、本当にそれでやっていけるのだろうか。今回の震災を経て、実は多くの都市住民がそういった不安を持ったような気がする。近年1家族あたりの人数が減少し、高齢者だけの世帯や一人暮らしの方も少なくない。

 市は、防災対策としての防災井戸や緊急食糧などの準備を着々として進めてきた。しかし、高齢者がたとえ数百メートルといえども、大きなポリタンクを持って水をもらいにいけるだろうか。

 行政がいくら準備をしてもそれをつなげる地域の「絆」がなければ、弱い立場のひとは真っ先に悲惨な状態に置かれることになる。せめて隣の若者に顔と名前を覚えてもらい、いざという時には助けに来てもらえるような近隣関係を作ることが、喫緊の課題だと思うが。


音楽サロンを自宅で始めて

 

 自宅を提供して小さな音楽サロンをはじめて5年ほどになる。
先月、4月28日の夜、第10回の企画として「結」という和楽器のユニットを招き、ライブコンサートを開催した。
津軽三味線、尺八、箏の女性奏者3人の華やかなステージにおおいに参加者が沸いた。
自宅であるから部屋をつないでも60人もはいればギチギチの状態、フラットの舞台だから演者の足元に観客がいるわけで、臨場感ありすぎという感じでライブが進行する。
ジャンルは問わない。洋楽器、和楽器、民族楽器、時には歌も、小さな会場で楽しめるものは何でも企画する。

 私自身は、なにか楽器をやったり音楽業界に縁があるわけではない。
ただ、前々からプロの音楽に接するのが東京文化会館かサントリーホール、あとはCDかテレビというのではあまりにも寂しいと感じていた。
大沢の地は駅からも遠く吉祥寺のようにふらっとライブハウスに立ち寄るというわけにもいかない。特に高齢になるとライブで質の高い音楽を聞く機会は本当に少ない。今、日本の音楽の水準は大変高いと私は感じている。
ところが多くの人は、これを享受できていない。大劇場やコンサートホールに名前が出るアーティストは、頂点の人達だけである。
しかし彼らだけが日本の音楽業界を支えているわけではない、特に若いアーティストの中には無名だけれども素晴らしい力を持っている人が少なくない。自分の音楽表現をするために、赤字覚悟でホールを借り、チラシをつくり、チケットを売って年に何回かコンサートを打つ。私は、プロデュースや営業せずに舞台だけに専念できる場を地域の片隅で提供したいと思っている。

 とはいえ仕事の傍らの活動なので半年に1回が精一杯、企画を立ててからお客様が来るまでたちまち半年が経ってしまう。
当日は、我社の庭師達が、イベントスタッフに変身して会場作りから受付案内、後片付けまですべてをこなす。彼らあってのサロンなのだが、そちらのコストも考えなければならない。
赤字分はすべて会社の負担になる。それでもコンサートが終わって、満ち足りた顔で家路につかれるお客様の顔を見ると、次は誰を呼んだらいいかなと考えている自分がいる。


今年もコミュニティ祭りの支度だ

 

 地元のコミュニティ活動に参加するようになって、かれこれ40年近くになる。
私が所属する団体は、コミュニティセンターを拠点に環境、福祉、教育、文化、防災とおよそ地域に関わることであれば、何でもやるような組織であるけれども、一番力を入れているのは、地域のふれあいを深める活動だ。
どんな地域活動でも互いが知り合うところから始まる。そんな活動の一番のイベントは、コミュニティ祭である。ちなみに今年のテーマは「広げよう 笑顔と絆 大沢コミュニティ祭」。5月26日、27日の開催だ。

 現在私は、この組織の副会長兼総務部会長を仰せつかっている。その関係であて職的でああるが、今回もお祭りの実行委員長を引き受けることになった。もう20年近く実行委員長か副実行委員長をやっているので、慣れてはいるはずなのだが、毎回様々なアクシデントや問題が生じ、息が抜けない。
ボランティア活動でのこうしたお役とは、どちらかといえばそれぞれの係やチームのリーダーの皆さんの調整役が主で、上から何かもの申すという立場ではない。祭りの参加団体も60以上、2日間にわたり延150人ほどのボランティアが祭りを支える。仕事でやっているわけではないので、それぞれがけっこう言いたいことをいいながら準備を進めていくことになる。振り回されるの役割といったところだ。

 そんな調整役としての実行委員長ではあるが、40年近く続いているコミュニティ祭、こうした出会いの中で少しでも地域の絆が深まってくれれば、と願っている。


「藤の花に魅せられて」

我が家に藤の木を植えて12年ほどになる。
 私は藤の花が好きでいつかは自宅に藤棚を作って楽しみたいと考えていた。藤の木は2本、青みのかかった紫と薄いピンクのツートンだ。高さ50センチしかない苗木が、1年で2階の屋根まで蔓が這い上がった。成長の速さに驚いた。まるでジャックと豆の木である。

 翌年、懇意にしている近所の棟梁にデッキと棚をつける櫓を作ってもらった。竹の棚は息子が取り付けた。毎年、蔓を詰めながら枝を伸ばし、5年目でようやく花が咲き始めた。
 花数が増え、夫婦だけで楽しむのはもったいないと思い、近所の方や友人に声をかけ、一緒に花を楽しむようになった。
 5年前からオープンガーデンにしてお手紙を皆さんに配り、夜はライトアップして、10日間ほどだが沢山の方に来てもらい楽しんでいただいている。

 紫とピンクの花房が1500ほど垂れ下がり、辺り一面花の香りで包まれる。20畳ほどのデッキではあるが、入れ替わり立ち帰り花見のお客様が来られ、甘酒を飲みながら話に花が咲く。花が人の縁を取り結んでくれる。

 明るい日差しの中で咲く藤も華やかだが、夜、そこだけがライトアップされ、照らし出される藤の花は、昼にも増して艶かしくなんと言えない美しさがある。造園業に変わってからは、会社のお客様にもご案内状をお送りし、一緒に花を楽しんでいる。
 花の時期は年によって変わるが、今年は春の訪れが遅かったので、5月の連休頃まで見頃が遅れるかもしれない。お近くの方は、お気軽にお立ち寄りいたければ幸いである。(問い合わせは会社まで)


春の原風景

「春の原風景…雑木林」

 大沢ガーデンが本拠を置いているこの大沢に私が住むようになって、かれこれ60年近くになろうとしている。昭和30年代中頃までの大沢は、まだまだ農村的な風景を残していて、我が家の北側は、農家が屋根を葺くための茅原が広がっていたし、雑木林と畑と水量豊富な沢があちこちに流れていた。我が家の脇の沢は排水路になっていたが、秋の台風シーズンになると大量の湧水で清流に変わった。夏にはホタルが飛びかい、ちょっと下流にはわさび畑があって、その細流にはタナゴが生息していた。

 独歩の『武蔵野』にもあるように、このあたりの里山の風景は雑木林にある。自然林や植林された森とは違い、コナラやクヌギ、クリなどの雑木が、大体20年に一度伐採され、薪や炭になる。切り株から再び芽が出て、20年経つと直径10センチから20センチほどに成長し、再び伐採される。この繰り返しである。冬になると落ち葉が掃かれ、ササも刈りこまれ、林はすっかりきれいになる。これらは畑に入れる堆肥の材料になる。冬の雑木林はとても明るい。春になると木々の芽吹きの前に野草が萌え出す。スミレ、ヒメオドリコソウ、オオイヌノフグリ、タンポポ、4月に入るとムラサキケマン、シュンラン、ジュウニヒトエ、木々の緑で暗くなるとヒトリシズカ、ニリンソウ、キンラン、ギンラン、ヤブラン、キツネノカミソリと可憐な花をつけていく。

 私にとって、まぶたを閉じると浮かぶのは春の武蔵野である。3月、雑木林に暖かい日が射し、薄紫のタチツボスミレが一斉に花をつける。天文台の道路脇の斜面には、小さな丈の野ボケに真っ赤な花が咲く。羽沢の流れの脇に、大人が両脇でも抱えられないようなコブシの大木に、雪のように真っ白な花が咲く。紫と赤と白、それが私の春の原風景の色である。